和泉宏隆 -追悼特別寄稿-

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9月28日の旧譜再発に向けてトリオのメンバー、村上聖氏、板垣正美氏からコメントをいただきました。


【村上聖】

THE SQUAREに興味を持ち始めたのは、やはり「MAGIC」がきっかけだったかな? ベースを始めてまだ数年の高校生、曲中のベースソロを一生懸命コピーしたものです。恥ずかしながら「スクエアのキーボーディスト=和泉宏隆」と認識したのは随分後になってからでしたが、それから10数年後に一緒に音楽を創る事になろうとは夢にも思いませんでした。

<和泉さんとの出会い>

スクエアが安藤さんと伊東さん、お二人でのユニット形態となった2000年の「Friendship」ツアーにサポートとして参加する事になり、その前哨戦としてNHK-FMのセッション505に新生T-SQUAREとして出演しました。その時のゲストとしてスタジオに来られたのが初対面でした。当時、僕はギタリストの榊原長紀さんとMelodicaというユニットでCDを出した頃でしたが、偶然にも和泉さんがソロピアノ作品を出されている所と同じレーベルだったんです。 恐らくそのCDを聴いて下さったんだと思いますけど、突然そのレーベルの方から「和泉さんが音合わせをしたいと仰ってる」と連絡が入りました。それから間もなく和泉さんと直接お会いする運びとなりご自宅のピアノルームに伺いました。好きな音楽やアーティストなどの音楽談義でその時間の殆どを費やしましたが、和泉さんは終始穏やかにまた丁寧な言葉使いでお相手をして下さいました。 勿論一緒に音も出しました。和泉さんの作品で何曲かセッションしましたが本当に楽しいひと時でした。このセッションがある意味オーディションだったのかも知れませんがその後、韓国EBS TVの音楽番組に和泉さんとのデュオで共演させて頂きました。 

<2度目の韓国~トリオ結成>

2006年9月下旬、再び韓国へ。 このツアーのメインは和泉宏隆コンサート@江南LG Art Center。 記憶が正しければ、ご本人名義では初の海外単独公演だったと思います。 実は前回の韓国TV出演の後、和泉さんからある相談を受けました。「韓国での単独公演の為にメンバーを集めて欲しい」と…。和泉さんにも既に構想があった様でギターは我がユニット「Melodica」の相棒である榊原長紀氏をご指名。ドラムに関しては「どなたか村上さんの気の合うお仲間を紹介してくれませんか?」 と、丁寧に尋ねられました。気の合う仲間と言えばもう彼、一択。20代初めからの盟友、板垣正美氏しかいませんでした。彼の音楽的なアプローチは絶対に気に入って貰えると自信を持って推薦したところ案の定の好印象。初の音合わせで韓国公演のメンバーが決定しました。 そして2006年10月1日、江南LG Art Centerでのコンサート。なんとオープニング・アクトを我がMelodicaが担当、その後本コンサートへ。韓国でも大人気の和泉さんですから客席は満員御礼、大きな拍手と声援に包まれた感覚が今でも鮮明に記憶に残っています。和泉宏隆、初韓国単独公演は大盛況で終えることが出来ました。そして正にこの公演が「和泉宏隆トリオ」の起点となったのです。 

<和泉宏隆トリオ“音楽の作り方”>

「ピアノトリオ」と聞くと普通は「あ~ジャズですね」ってなると思うんです。ジャズというジャンルは本当にその「幅」が広く、独奏でもトリオでも、またビッグバンドと編成に関わらず様々なスタイルで演奏されています。ジャズが歌謡曲やポップスと明らかに違う部分、それは「アドリブ・ソロ」が主役である事でしょうか。 スタンダードと呼ばれる「枯葉」や「Take Five」。それらの曲を聞くとテーマとなるメロディは最初と最後に出てくるだけでそれ以外は全て演奏者のアドリブ・ソロです。和泉さんの音楽ですが、音楽のフォーマット(構成やアドリブがある事など)は確かに「ジャズ」だと言えます。しかし、和泉さんの音楽を例えるなら「シンフォニー」だと僕は感じました。和泉さんがピアノを弾き始めます、そして聞こえてくる音は当然ピアノですが、和泉さんの頭の中で鳴っているのはきっとオーケストラなんだろうなぁ、って思っていました。右手の小指が1stバイオリンになったりオーボエになったり… 左手はチェロやチューバ、ティンパニになる事もあるんじゃないかな。単に右手でメロディ、左手でコードという単純な響きではない事はファンの方なら気付いていると思います。そして和泉さんの作品はその構成にも想いが込められていて、単にイントロ~Aメロみたいにブロック的な構成じゃないんですね。イントロからエンディングまでが一つの物語になっているんです。その物語を具現化する為に、和泉宏隆トリオのリハーサルではまず僕と板垣くんで和泉さんの「シンフォニー」を理解する事に時間をかけました。僕の場合は勿論ベーシストとしてボトムを支える箇所、また時折チェロの様なイメージで和泉さんの対旋律を受け持つなど、ピアノのフレーズと和泉さんの表情も見ながら演奏する方法を緻密に決めて行ったりしました。板垣くんも同じ様な感じでしたね。だから普通の8ビートの様なパターンを延々演るって言う場面は殆どありません。楽器としてはドラムですが、役割としてはオーケストラの様々な打楽器の如く音を重ねる必要があったと思います。 

<和泉宏隆トリオ 始動!!>

韓国で産声をあげた和泉宏隆トリオ、帰国早々なかなかのハードスケジュールに見舞われます。2006年11月、韓国でのコンサートの翌月から旗揚げ興行で東京Blues Alley Japan~神戸Wynterland~大阪Royal Horseのツアー。そして翌2007年2月、後にリリースされるBlues Alley Japanでのライブレコーディング。更にレコーディングに向けてのお稽古期間を経て4月にトリオとしての1stアルバム「Lights In A Distance」制作と慌ただしく動きます。因みに和泉さんは日頃からリハーサルの事を「お稽古」と呼んでいました。アルバムリリース後は全国を駆け巡るライブツアー。一旦出発すると約1週間、長い時は20日間程の演奏旅行になりました。和泉さんとはすっかり家族の様な感じで過ごしていましたね、ただライブの後は殆ど打ち上げでしたので一応体調には気を配っていましたが… 、まぁ毎晩よく飲んでました。(笑) 

<レコーディング>

2作目となる「A Square Song Book」のレコーディングからスタジオが秋田県大潟村の河内スタジオに変わりました。 オーナーの河内伸介さん、本業はお米作りの農家さんです。当然、予算的な理由もあったと思いますがこのスタジオ、天井も高く音の反響は抜群。 ピアノもスタインウェイのフルコンサート、丸一日使ってゆったりと作業が出来る環境は都内では考えられません。しかもオーナー河内さんのお屋敷に泊めて頂いて、レコーディングの後は宴会付きと来たら捗らない訳がありませんよね。(笑)  レコーディングの為のお稽古は都内のスタジオでしっかり済ませていますが、レコーディングの時間配分に余裕があるので、録音した演奏を聴いて改めて意見を出し合いながら完成を目指す事が出来たのは本当に良かったと思います。 

和泉さんのレコーディングに欠かせない方がもう一人います。 調律師の小沼則仁さんです(2013年に他界)。調律と言っても単にピッチ(音程)を揃える訳ではありません。僕は抽象的にしか述べられませんが、印象の明るい曲は煌めく様な響きに、そしてバラードでは余韻の美しい落ち着いた感じに…と、和泉さんのタッチを存分に引き出すピアノにしてしまうのです。大体1日で4曲録音するスケジュールでしたが、その順番は小沼さんにもご意見を頂いて決めていました。ライブでも感情の篭った演奏を聞かせてくれる和泉さんですが、レコーディングのピアノはこれから録る曲の為だけに調整されたものですから、気持ちの入り方は尋常ではありません。そして録り終えると次の曲のピアノにする為に再調整。アルバムの録音はこのように本当に丁寧に作られました。 

<和泉さんの音楽>

和泉さんの音楽をトリオで演奏する訳ですがやはり僕にとっての難関が「ソロ」でした。このトリオのCDを聴いて頂いている方にはピアノのテーマの後はギターみたいな音のソロが来るというフォーマットが自然に感じられる事と思います。このトリオでは6弦のベースを使用していて音域としてはギターの半分くらいまでカバーしているので和泉さんもそのイメージでユニゾンで弾く部分や対旋律のラインなどを指定してアンサンブルを構築する事が多くありました。そしてソロパートですが、いくつかのパターンがあります。 ① 楽曲のテーマ部のコード進行をそのまま使用するタイプ。 ② ソロの為のフォームが別にあるタイプ。 悩ましいのは ①のタイプです。「Three Swallows」がそうでした。起承転結があって流れる様なハーモニーで作られている曲ですよね。 しかしこの曲、超絶難易度の高い和声で作られていて1小節の中で目まぐるしくコードが変化したり、部分的に転調していたりと即興で演奏するのは至難の技。 勿論、和泉さんはさらっとにこやかに演奏してしまうんですけど…。そして僕のソロの後にクライマックスの大サビがやってくるので、ラストはサビにつながる様にじわじわとテンションが上がる雰囲気に…、って考えると「これはアドリブじゃ無理だ!」という僕の中での結論となり、それからソロは全て作曲する事にしました。前にソロパートは色んなパターンがあると書きましたが、シンフォニックな和泉さんの作品ですからソロパートが必ずしもフィーチャーリングではないのです。トンネルに入っていく様にベースソロをきっかけにダークな雰囲気に変化させたり、逆に暗闇から抜け出るきっかけとしてのドラムソロだったりと、単純にピアノ~ベース~ドラムの「ソロ回し」ではなく音楽に必要なセクションとしてソロパートが配置されています。これは表現の為の采配であり、和泉さんの意図する音楽なのだと思います。基本的には僕の「作曲」したソロパートはそのままOKとしてくれましたが、僕がたまに 使う一瞬転調したかのような音使いには「すみません、その音はこのトーナリティ(調 性)には無いので他の音にしてくれますか?」とまた丁寧に仰ってくれる和泉さんでした。(笑) 

<和泉さんへ> 

2000年に出会って2006年からトリオの一員として一緒に音楽を創らせて頂いて、僅か5年の演奏活動でしたけど中身の濃い、そして多くの経験をさせて頂いた5年間でした。ピアノ大好き、音楽大好き、お酒も大好き、状態のいいピアノだと大はしゃぎ、悪いピアノだとヘソを曲げる(笑)、本当に真っ直ぐで純粋な子供のような方でした。そんな和泉さんだからこそ愛に溢れた音楽をこんなにも世に送り出し、その愛情を受けてその音に癒され、元気を貰ったファンの方々、またその愛情に刺激を受けて音楽の道を志す若者、本当に沢山の人に愛の篭ったメッセージを届けられた事と思います。音楽家・和泉宏隆の作品に少しでも関われた事には感謝しかありません、そして誇りでもあります。

長い間本当にお疲れ様でした。

ごゆっくりお休みください、ありがとうございました。

村上 聖 


【板垣正美】

<和泉さんとの出会い>

出会いのきっかけは30年以上リズム隊を組み(2021年現在)最も信頼を寄せる私にとっては無くてはならない存在であるベーシストの村ちゃん(村上聖氏)でした。私がトリオに参加する少し前からDuoでやっていたのを知り「良いなぁ、トリオになるならやりたいなぁ」って思ってました。そもそも大学でフュージョンにハマり(カシオペア、スクエア、チックコリア等)プロの世界に入ってからもよくエレクトーン等の仕事でスクエアの曲はたくさんやりました。気がつくとスクエアの曲で好きなのは和泉さんの曲が多い事に気が付きました。そんな経緯があったのでオファーが来た時にはそれは喜びましたよ!初めて会った時の印象は「大柄で上品な人」。これは少し後に「下品で上品な人」に変わるのですが(笑)。和泉さんは常に場を盛り上げようといろんな話題を提供してくれました。下品な話から自虐ネタまで…(笑)しかし、どんな下品な話でもどこかに上品さがあると言うか、きっと育ちの良さと頭の回転の速さと言葉使いがそうさせているのだと思います。それと初対面の時私を見て「おぉ、痩せてる人が1人もいない(当時のマネージャー含め)」と笑いながら言ってました。そこから生まれた鉄板だったMCが「本日も平均年43.5歳、平均体重82.7キロでお届けします」(数字は毎回アドリブw)でした。ライヴに来られてた方にも懐かしいMCだと思います!

大学時代にもう一つエピソードがあります。私が参加していた埼玉の上尾市民吹奏楽団(全国大会で金賞受賞)は小長谷宗一先生(作編曲家で吹奏楽界の重鎮)が指導に来られてました。吹奏楽のレコードを多く出していた東芝EMIで「バンドクリニック」と言うアレンジャーの先生がアマチュアバンド(吹奏楽団)を指導しながらその過程をレコーディングしてレコードにする企画があり、小長谷先生が上尾市民吹奏楽団を推薦してくれました。その時に「宝島」を吹奏楽アレンジされた故真島俊夫先生がいらして「宝島」の指導&レコーディングしました(板垣がドラム)。この約20年後にご本人和泉さんと「宝島」をレコーディングするとは人生は何が起こるか想像も出来ないものだと思いました。この話は和泉さんとの初リハの休憩時間にお話ししました。その後、和泉さんと真島先生は会われる訳ですが、この時点ではまだお会いしてなかった様です。アレンジしてくれた事をとても感謝していて「真島さんには足を向けて寝られないよ!」と言ってました。3人で会えたらどんな楽しい話が出来ただろうと思っていましたがそんな機会は訪れず、真島先生は5年前に旅立ってしまいました。そして私の夢でもあった上尾市民吹奏楽団の定期演奏会での和泉さんとのゲスト出演。お世話になった楽団への恩返しにもなるかなと思っていましたが、それも夢となってしまいました。

<ソウルの思い出、エピソード>

何せ初ライヴがソウルでしたからね。しかもキャパ1000人のホール。とにかく熱い国ですからメチャ盛り上がりました。ひと月以上前から私の写真ですらネットに上がってましたから既に私を知っているんです。本番中にちょっとしたハプニングがありました。曲は忘れましたがある曲のピアノソロの最中に照明が落ちたんです。停電では無かったので演奏はそのまま続きました。長く感じましたがおそらく10秒ないくらいなんだと思います。パッと照明が付いた瞬間、和泉さんは客席に向かってニコっと!その瞬間「ワァー!」ともの凄い盛り上がりを見せました。トラブルがプラスになった瞬間でした。終演後のサイン会もメンバー全員でやり、お客さんほぼ全員並んでたのでは?と言うくらい盛況で1時間半かかりました。翌日はソウルから車で4時間かけて韓国第2の都市テグのテレビ局でのライヴ。このライヴはYouTubeでも見れますね。白いピアノ弾いてるヤツです。和泉さんはいつもとても低い椅子に座るんですが、この日の椅子は低くならず結局スタジオにあった白い木の箱に座って弾いてます(笑)ピアノの色と合っているので映像的には◯ですね!とにかく毎晩遅くまで(いや早朝かな?)焼肉だ!ホルモンだ!で私は3kg太りました(笑)

<特に印象に残っているライヴ>

やはり自分の楽器で良い音環境で出来るSTBのライヴは良かったですね。違う意味で忘れられないのが仙台のパリンカというレストランでやったライヴ。天井が高くピアノの響きが良いためPAが無いのです。マイク無しのピアノの生音に合わせる事ほどドラマーとして大変な事はありません。しかもちょっと叩くと鳴り過ぎてしまう環境で。ほぼピアニシモでしたが、小さい音を上手くコントロールするのは意外と楽しかったです。あとトリオではありませんが、私と和泉さんとの最後のライヴとなった2015年8月の六本木クラップス。和泉さん須藤さん板垣のトリオに岩見さん宮本大路さんという、私の大学時代のフュージョンスター達との夢のようなライヴでした。このライヴの数ヶ月後に大路さんは亡くなってしまったので忘れ難いライヴでした。久しぶりに会った大路さんが「久しぶりに聴いたけどやっぱり和泉トリオは良いね~」なんて言ってくれて嬉しかった記憶があります。

<ツアーの思い出>

ツアーの思い出はあり過ぎますが、村上板垣のラストツアーの後半戦、東北・北海道編の石巻ラ・ストラーダでのライヴ。数多くのライヴをやりましたが唯一この日だけ和泉さんは別人でした。ライヴ中の私はだいたい和泉さんを見ながら演奏しているのですが(ツアーの途中からからほぼ譜面は見なくなります)まず表情が違いました。プレイも攻撃的というか非常にアグレッシブでした。ベースソロとかでも「タタスタスタスタ」みたく絡んでくるのです。リズムのキレも凄かったです。メチャかっこ良かったです。終わってから冗談混じりに「何かドーピングしたんですか?」って聞いたらユンケルを2本も飲んだって言ってました(笑)その後、岩手を経て(ずっと車移動)秋田のキャットウォークのライヴでは私が花粉症で(秋田県に突入と同時に)くしゃみが止まらなくなりました。本番の緊張感により止まると思いきやツアーも後半だったので緊張しなくなっていて本番も大変な事に!そこで考えたのが「いつもやらない様なスリリングなプレイに徹する」でした(笑)多少なりとも楽になった気がします。その夜は翌々日の函館ライヴのため青森まで移動して宿泊しました。青森県突入と同時にくしゃみは止まりました「秋田杉恐るべし!」青森市内からマグロで有名な大間を目指します。大間から函館まではフェリーです。大間への道中ずっと「恐山まであと~km」という看板を見ているうちにみんな、恐山に行ってみたい!って気持ちになり目指すことに!しかし3月なので冬季閉鎖中のためフェンスが閉まっていました。(一同残念!)そこから函館、室蘭、平取、苫小牧、札幌とライヴをやりこのトリオでの活動は幕を閉じました。

<レコーディング>

秋田のレコーディングは約1週間の合宿の様な形で行われ毎日が楽しかったです。ここではトリオ以外に和泉さんの活動に欠かすことの出来ないピアノ調律師の故小沼則仁さん(2013年没)が同行します。私たちが休憩になると小沼さんの出番です。小沼さんはチック・コリア、ミッシェル・カミロ、小曽根真、上原ひろみ等の調律を任される、知る人ぞ知るスーパー職人なのです。一見、無愛想で職人気質の小沼さんは私が見たことある調律師とは全然違うことをやっている様に見えたのでとても興味を持ちました。見ているといろいろ教えてくれるので更に面白くなり私の休憩時間は小沼さんの見学時間になりました。そんなに遅くならないキリの良い所でレコーディングは切り上げ、スタジオオーナー兼エンジニアの河内(こうち)さんによる手料理の振る舞いでの打ち上げとなります。これがまた美味しくて。河内さんの本業は毎年120tのあきたこまちを収穫するお米農家さんなのです。毎回こんな形でレコーディングは進みました。「A Square Song Book」以降は河内スタジオで録りました。

<和泉宏隆の音楽を演奏することについて>

楽曲に関してはミディアム~スローな曲が多いので、どの曲も同じ様にならない様に気をつけました。と言っても変わった事をやる様な曲でもないので、なんだかんだ似た感じになってしまったかもしれません。ライヴは、特に地方のジャズクラブでやる時はボリュームに気を使いました。和泉さんはタッチをとても大事にする方なので、ドラムが大きいからいつもより強く弾く、という事はしたくないんです。ただ小さく叩くだけだとグルーヴとか無くなっちゃうので気をつけました。見た目は普通に叩いてる時と変わらないけど音は小さく。逆に言えば小さな音だけど体の芯から出す、と言えば分かりやすいですかね。いろいろ言っていただきました。ステージでは1stステージ終了後に「リズム隊の音量を少しだけ落として欲しい」と言われることも。ライヴ終了後には「このリズム隊は音量落としても演奏が変わらないから凄いよな」なんて言ってもらえることも!個人的には「もっと安定感とキレを!」と言われましたね。前置きで「神保さんと則竹さんと比べて申し訳ないんだけど」と言うのがありました。^^; ストレートに言ってもらえるのは逆に良かったです。こういう事もありました。ある本番かリハの1週間後くらいのリハで休憩中に「いたやん、この1週間で君に何が起きたんだ?安定感もキレも全然違うんだけど!」と。私は「遅くて大変な練習をひたすらやってました」と。和泉さん「結局そういう練習が1番大事なんだよなー」としみじみと言ってました。練習としては地味で退屈かも知れないけど、こういう大事な事は自分の生徒にもよく伝えています。

<アルバムやライヴの選曲、アレンジについて>

選曲は全て和泉さんにお任せでした。初めて演奏する曲については割と明確にドラムのパターン等があった訳ではなかったので中々和泉さんのイメージに合わない時もありましたが、トリオのファーストとなる「Lights In A Distance」の「After The Ship Has Gone」でのマレットを使ったパターンは「面白いねー」って言ってくれました。ライヴではたまにカバー曲をやるのですが、和泉さんが敬愛するピアニスト、ラーシュ・ヤンソンの曲もやりました。ラーシュは私も大好きなピアニストとなりました。ジャズを聴きたいけど何かお薦めある?って聞かれると間違いなくラーシュを薦めます。メロディからアドリブまでホント綺麗です。

<和泉さんへ>

もう一度演奏したかった。これに尽きます。トリオは4年間でしたが、5人で新幹線・飛行機移動のスクエアに対し、マネージャー含め4人で車移動のトリオはより濃い付き合いだったと思います。移動中、楽屋、打ち上げでは場の空気を考え常に率先して話題を提供していました。和泉さんは性格上?隠し事が嫌いなのか聞いてもいない個人的な事まで話したりしてドキっとする事もありました。皆さんある程度そうですが和泉さんもいろんな事を抱えていたと思います。時にはお酒が進み過ぎてしまう事もありました。あちらに行ってしまった今、思う事はいろいろな事から解放されてゆっくりとして欲しいなという事です。

何人かの方にはお話しましたが「虫の知らせ」みたいなものがありました。訃報のニュースは水曜早朝に友達からのLINEでした。直ぐにYahoo!ニュースを見てみると亡くなられたのは月曜日との事。ハッとしました。月曜日の夕方、ドラムのレッスン中の事です。6人の生徒がいて2台のドラムセットを生徒が叩いていました。会話もままならない位の音が出ている事が想像出来ると思います。ふと、人の声?ギターの音?シンセの音?みたいなのが聞こえ壁の上の方を見上げました。すると同時に1人の生徒も同じ様に顔を上げたのです!その生徒のそばに行って「何か聞こえたの?」と聞くと人の声みたいのが聞こえたと。その場は何だったんだろう?で終わりましたが、水曜に謎が解けた気がしました。もし本当に知らせてくれたのなら、悲しいですが嬉しいですね。

最後になりますが、ある日のSTBでのライヴのサウンドチェックで、小沼さんと私は客席で和泉さんのピアノを聴いていました。小沼さんはポツリと私に言いました。「和泉君は他の人には無い物を持っていると思うなぁ」と。

和泉さん、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。

2021年9月20日 板垣正美